日本固有の文化遺産、浮世絵。もともと浮世の語源は、平安期の“つらく悲しい世の中”であるという仏教的な世界観から生まれた「憂き世」が、江戸期の享楽的な世間観の中で“つらい世の中であれば浮かれて暮らそう”という肯定の意味へと変化していったもの。
写真:Raphael Villet 文:Naoki Onodera(Bahama Kangaroo) 協力:カリフォルニア観光局
REPORT
アメリカへ伝える、日本の伝統美術
浮世絵ワークショップ[前編]
浮世絵は、人々の暮らしや風物などを描く風俗画として、江戸期に広まりました。女性を描いた代表的な美人画をはじめ、歌舞伎役者を描いた役者絵や、近年の展示が話題を集める春画。このほかにもさまざまな題材で日本の歴史が語られてきただけでなく、筆には生き物の毛を、染料には鉱石や植物を用いるなど、すべて天然原料から捻出された木版画の技術は、今なお世界中の人々の心を魅了しています。そんな文化の功績を残す一方で、その素晴らしい技術が消息しつつある今日。伝統的な技術を継承する浮世絵彫・摺師、朝香元晴先生は、自らの足で世界へ渡り普及活動を行っています。[前編]では、今年リニューアルしたばかりの「バークレー美術館」で地域の人々に向けた浮世絵のワークショップをレポート。
アメリカ、バークレーまでの道のり
「浮世絵は、絵師、彫師、摺師など日本の技術が結集した“職人”」と話す、浮世絵彫・摺師の朝香元晴先生。東京で営む小さな伝統木版画の教室で生徒や弟子の育成をする傍ら、伝統工芸士として文部科学省により「国宝」と指定される日本画や浮世絵の復刻・複製、そして、浮世絵の普及活動にも努めてきました。これまでに2度のヨーロッパツアーを経験し、今年は、カナダからアメリカの東海岸、西海岸を周る、初めての北アメリカ大陸へと足を伸ばすことに。
そもそも浮世絵木版画とは、1,620年頃から250年間にわたる江戸期の鎖国政策のなかで日本独自の風俗・文化を色濃く写し出したもの。白黒の単色刷りから始まり、そこに赤い顔料を加えた丹絵、さらに「見当」の発見により多色刷りへと発展。それぞれの作品に見受けられるくっきりと繊細な線や、力強くも透き通る鮮やかな発色は、小刀、馬連、刷毛などの個性的な道具を使うことによりその技術の完成度を高めます。これらの道具を巧みに使い、きめ細かく彫られた山桜の版木に、色素と楮の樹皮繊維からなる和紙を重ねて完成するひとつの版画絵。そんな彫りと摺りの基礎プロセスを体験できる浮世絵版画のワークショップが「バークレー美術館」で開催されました。
地域の人々へ向けた、2日間のワークショップ
木の葉が色づき始める秋の「バークレー美術館」で行われた朝香先生によるワークショップは、浮世絵の歴史や道具の解説から、江戸期に活躍した浮世絵師・喜多川歌麿と葛飾北斎の代表作品から学ぶ彫りと摺りのデモンストレーション、そして参加者自らの手で版画摺りを体験するまでがカリキュラム。これまで興味を持ちながらも触れることのなかった異国の文化に一歩足を踏み入れようと、地元バークレーから多くの人々が集まりました。
美術館キュレーターのデイヴィット・ウィルソンさんの紹介とともに会場は拍手で朝香先生を歓迎。テンプル大学教授のルイーズ・ラウスさんの通訳に支えられながら、和やかな雰囲気の中でワークショップは始まります。ワークショップを受講する生徒は、5歳から70歳までの約60名。朝香先生の口から語られる浮世絵の歴史や道具についての解説に真剣に耳を傾け、実際に使われるものに触れるとそのポイントを自らの手で隅々まで確かめていきます。
▲ 構造の繊維が絡み合って破れにくいという和紙の強度を実際に手でちぎって確かめる子ども。
ワークショップは、師範台を囲んで彫りのデモンストレーションへ。お手本にしたのは、1ミリの間に5本の髪の毛を彫り上げた、浮世絵師・喜多川歌麿による『襟粧い』の「毛割」の技法。見事な道具捌きで彫り上げられる精工なラインを目の当たりにした生徒たちは、そっと朝香先生の手元を追いかけながら息を呑み、完成までのひと時を静かに見守ります。
▲ すべて小刀で彫り上げる「毛割」の技術。江戸期に活躍した喜多川歌麿は、さまざまな姿態や表情の“女性美”を追求した美人画の大家で、葛飾北斎と並び国際的に知られる浮世絵師。その作風は、繊細で優麗な描線を特徴としています。
そして、江戸後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』を例にぼかし摺りを織り交ぜた「多色順序摺」。朝香先生は、神奈川沖浪裏の原版9枚から3枚の絵を選び、その素晴らしい技術をわかりやすく伝えていきます。和紙に色素を粘着させるために使うでんぷん糊と、顔料を程良く湿った木版に1摘。それを木版に彫られた絵がきれいに写るよう馬の尾の刷毛でムラなく伸ばし、少しの間息を止めながら両手でそっと木版の上へ和紙を置きます。
▲ 両手で挟み込みんだ和紙を「見当」と呼ばれる木版の両サイドにつけた目印の上へ。「世界遺産級」と胸を張る朝香先生の道具は、竹の繊維で編み上げた馬連紐、「あてがわ」と呼ばれる1日1枚糊づけした48枚の和紙、鮫皮で1本の毛先を3〜5本に削ぎ分けた馬毛など、どれも細やかな加工が施されています。
和紙の繊維に顔料が染み込むよう馬連を左右に、そして力強く丁寧に動かし摺り上げを。一つひとつの彩りが和紙に加わるたび、会場は「わっ」と歓声の渦に。「私はこの道50年の木版画彫師で摺師ではないので、きれいに摺り上げるこの技術はすごく難しいんです。それでもこれは、20年摺りの練習を重ねてきた成果」と、自らの経験を嬉しそうに朝香先生は語ります。
▲ 『神奈川沖浪裏』は、世界で知られる最も有名な日本美術作品のひとつ。葛飾北斎の風景画・浮世絵をまとめた名所浮世絵シリーズ『富嶽三十六景』に収録される作品のひとつで、巨大な波と翻弄される舟の背景に富士山が描かれているのが特徴。
初めて道具に触れた喜びを感じること
いよいよ、朝香先生の教えのもと版画摺がスタート。生徒たちに配られたハガキサイズの和紙に摺るのは、江戸末期に活躍した浮世絵師・歌川国芳の代表作。金魚か猫かのふたつから好きなデザインを選び、説明の通りに慎重に自分の手で摺り始めると初めて生徒たちは浮世絵版画の難しさに気づきます。
世代も職業も異なる多くの生徒たちがおぼつかない手つきで版画の道具に触れ、興味を惹かれるままにその感触を確かめていく、そんな充実した2日間のワークショップは、参加者だけでなく、バークレー美術館においても日本の伝統美術を身近に感じる機会として大きな反響を集めました。
▲ 柔軟なアイデアとデザイン力を併せ持つ歌川国芳は、美人画から妖怪画まで枠にとらわれずに数々の作品を生み出した、歴史的な浮世絵師のひとり。猫好きとしても知られ、猫を抱きながら作画活動していたといわれています。
※[後編]は、自然あるれる山間のエリア、ユカイアでのワークショップをレポート。ベイエリアを拠点とするアーティストが木版画に取り組むことで日米の文化交流を図ります。
INFORMATION
バークレー美術館 & パシフィック・フィルム・アーカイヴ
住所: | 2155 Center Street Berkeley |
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時間: | 11:00〜19:00(水曜・木曜・日曜) 11:00〜21:00(金曜・土曜) |
定休日: | 月曜・火曜 |
TEL: | (510) 642-0808 |
WEB: | bampfa.berkeley.edu |
PROFILE
朝香元晴(あさか・もとはる)/昭和26年生まれ、静岡県出身。16歳の時に高見澤版画研究所の高見澤忠雄氏に勧められ、京都の菊田幸次郎氏に弟子入り。平成13年に独立、摺師の菱村敏氏と「匠木版画工房」を設立。精緻な技、繊細な神経と高度な技術を駆使し、浮世絵木版画や現代版画を多数手がける。東京国立博物館所蔵の国宝を史上初めて正式認可を得て復刻させた経験も。文部大臣認定浮世絵木版画彫摺技術保存協会事務局長、東京伝統木版画工芸協同組合理事、東京木版画工藝組合役員。 takumihanga.com
INFORMATION
匠木版画工房 ふれあい館 朝香伝統木版画教室
住所: | 東京都新宿区富久町23-4 |
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教室時間: | 8:00〜18:00 |
TEL: | 03-5379-5668 |
WEB: | takumihanga.com |
朝香伝統木版画教室では、生徒ひとりひとりの個性を最大限に引き出せるよう、彫りと摺りの技術を指導しています。浮世絵彫・摺師が彫り上げた浮世絵の木版を摺りをはじめ、江戸期に活躍した浮世絵師、喜多川歌麿や東洲斎写楽、葛飾北斎などの作品を参考に高度な彫り・摺りの技術を体験することも可能。「鹿の子模様」をはじめとする彫りや、「ぼかし」を中心とした摺りなど、江戸期からの技術を継承する職人の稽古によって、他の教室では学べない、本格的な伝統技術を習得できます。