写真:間部百合 文:井上晶子
REVIEW
『食記帖』刊行記念トークイベント「読む料理、おいしい読書」vol.01 細川亜衣×江口宏志
イタリア料理で人気の細川亜衣さんによる待望の新刊『食記帖』がこの夏刊行しました。日記のような、備忘録のような、一年半以上にもわたる日々の食事を記したものです。時に庭の植物、家族、友人などについて少ない言葉で綴られています。ジャンル分けするなら料理レシピ本......? ところが本の中に写真は一枚もなく、イラストレーターの山本祐布子さんの繊細な線画が添えられ、簡潔に記された本著は滋味深い一冊です。
刊行を記念して、7月末日、東京・外苑前でトークイベントが開かれました。細川さんから話を引き出すのは、旧知の仲という、セレクト・ブックショップ「ユトレヒト」を主催する江口宏志さん。テーマは「読む料理」。料理に精通した人気料理家と、当代きっての本選びの目利きが交わす言葉の数々......。さてさてどんな話が飛び出すか。1回目は、『食記帖』が誕生するまでのお話。10年以上前に遡りますーーー。
料理本に必要なものは想像力
細川亜衣さんが作る料理は、長く暮らしたイタリアで身につけた料理をベースに、旅で訪れた各国各地の味を取り入れたオリジナリティあふれるもの。ふつうの食材を使いながらも、細川さんのアイディアとひと工夫で生み出される一皿。その料理のファンも多く、著作のイタリア料理のレシピ集も人気で、かつて東京で開いていた料理教室はいつも満員、大評判でした。現在は、嫁いだ熊本で家族とともに暮らしながら、料理教室や食に関するイベントを行っています。
その細川さんの新刊は340ページ以上にわたる厚さ。厚いだけでなく、一見すると日記。食べた料理の作り方も載っているけれど、読み進めるうちに細川さんがどれほどこの暮らしを愛し、料理を作ることに刹那的になっているか浮かび上がってきます。この日は、“食べたものを記録するということ ”についてお話がはじまりました。
「食べたものをメモするようになったのは、イタリアに初めて暮らしたころ、1995年くらいから。フィレンツェで部屋をシェアしていた友だちが食べたものをメモしていたのを見て、私もやってみようと思って始めたら、これがけっこう面白かった」
細川さんは、江口宏志さんを相手に朗らかに、持参した当時のメモ帳やノートを見せながら話してくれました。
「メニュー名はイタリア語、食べた印象などのコメントは日本語で書いていますね。パスタ1本1本、グリーンピース1個1個の絵も描いてますね(笑)。色まで塗ったものあります。ヒマな留学生だからできたことですね(笑)。食べたその日に書いたものもあれば、だいぶ経ってからまとめて書いたものもあります。当時は誰に見せるというのでもなく、食べたものや教えてもらった料理を書いていました」
長期にわたるイタリア滞在で各地を点々、さまざまな料理を食し作っていくうちに、その記録の方法も変わっていったと言います。
「絵を描く代わりに写真を撮る時期も長かったですね。でもある時から写真を撮らなくなったんです。食卓で写真を撮るということが嫌になったんですね。とにかくまずは食べたい!(笑)撮影している時間ももったいない! っていう感じ。それに、料理にカメラを向けることに違和感を感じるようになって。なんだか食卓を壊すような行為に思えてしまって」
細川さんは「これは、私にとっての話ですけど」と加えましたが、江口さんをはじめ来場者のハッと小さな息を飲む音が場内に響きました。デジカメやカメラ付き携帯電話と道具が簡易になったぶん、料理を写真に撮るという行為は手軽になりました。ブログやフェイスブックなど記録媒体も幅広くなり、もはや「食べる前に撮る」はふつうに誰でもやっていること。料理と自分との距離や関係などに疑問の余地もなくなっていたことを思い出させたのかもしれません。
「私にとって、料理はやっぱり画像や絵に残すものじゃなくて、食べて記憶に残るものだったんです。そしてその記憶を辿るものなんですね。(山本)祐布子ちゃんみたいにいい絵が描ければ別ですけど(笑)、私は画才もないので。あと私は、食卓周りの記憶力が割と良くて、後からでもだいたい思い出すことができる。だから日記とはいえ、後から思い出して書いた日も多いです」
「一般的に記録に残すといったら、写真や絵なんだけど、亜衣ちゃんの場合は言葉なんだね。おもしろいね」と江口さん。他者と共有できないビジュアル----記憶を辿ることは、調理に似ている行為だとも言います。0から想像力をふくらませて作り上げる行為。かつて、料理はできあがりの写真を目標に作るのではなく、頭の中のイメージを形にしていったもの。とはいえ、忘れてしまうのが人間。忘れたくない味は、細川さんもメモに残すのだとか。
理想の料理の本 好きな料理の本
写真のない料理の記録について、細川さんの料理本のイメージを決定づけた本があると言います。
「一番好きな料理本は、トリノで出版されたイタリア語の本、『LE TAVOLE INCANTATE』です。書いたのは、リヴィエラ海岸でホテルを営むマダムで、彼女が個人的な食事会に招いたお客様に供したメニューを中心に記してあります。料理や飲み物だけでなく、器やクロスなど食卓のしつらえについても、色や風合いなどが絵を描くような彩り溢れる言葉で綴られている。そこに風景や花などの水彩画が添えてあり、短い詩が書かれている。言葉は、名詞と形容詞だけでそれ以外何もなく、3月から始まって翌年の2月に終わる。手に取り、頁をめくるたびにドキドキと胸が高鳴る、“言葉で描く食卓”について考えさせられる、大好きな本です」
それを聞いた江口さんは、細川さんがこの日のために挙げた本のリストにある、『吉兆味ばなし』について話を振りました。
「この本は、数あるレシピ本の中で本当に素晴らしい一冊。こういう本はこれから先、決して生まれないでしょうね。言葉一つ一つの重みが全く違う。今の、いわゆる料理家と呼ばれる私たちには決して書けないことが書かれている。あと、今はレシピというと必ず作り方と写真が求められるんですけど、料理をある程度される方は、写真がなくても読み取らなければならないと思うんです。----本当は読み手が成熟して、きちんと行間から読めるようにならないと、と思います。この本には写真は載っていないのですが、料理の味、盛りつけ、器、あらゆることについてより想像がふくらみます。写真のある料理本はそこで止まってしまいがちだけれど、言葉だけの料理本は古びることがないような気がします」
まっすぐ江口さんを見据えて背筋を正して言うその姿に、料理の本に対する細川さんの哲学のように耳に届きます。
「辰巳芳子さんの『手しおにかけた私の料理』も挙げました。これは、私が料理全般に興味を持ったころ、とても実践的に参考にした一冊です。御飯の炊き方、和え物の作り方とか基本を丁寧に厳しく導いてくれたというか。辰巳さんも湯木さんも、ご自分の料理に対する哲学というか確固たる信念とゆるぎない経験をお持ちになっているからこそ、作る料理が素晴らしく、結果として美味しさにつながってゆくということが、本を通して伝わってきます」
→『食記帖』刊行記念トークイベント「読む料理、おいしい読書」vol.02へ続く!
BOOK REVIEW
『食記帖』 著:細川亜衣
リトルモア|¥1,680
東京から熊本へ嫁いだ細川亜衣さんの、1年半以上にわたる食の記録。日記にようでもあるレシピ本の面も併せ持つ〈読む料理〉本。写真は一枚もないが、イラストレーター・山本祐布子さんの絵が文章を彩り、細川さんの手から生まれる料理の数々を想像させる。言葉のみによって描写される料理は、野性味と優雅さが同居。読むと食べたくなる、作ってみたくなる一冊。
PROFILE
細川亜衣(ほそかわ・あい)/1972年生まれ。料理家。大学卒業後にイタリアに渡り、料理を習得。帰国後、東京でイタリア料理の教室を主催、人気を博す。2009年より熊本在住。料理教室や料理の会を各地で開催する。これまで出版してきた本は、きめ細やかで鮮やかな料理を紹介し好評。新刊『食記帖』を今夏上梓したばかり。aihosokawa.jugem.jp
江口宏志(えぐち・ひろし)/1972年生まれ。セレクトブックショップ「UTRECHT」代表。ブックショップ、ギャラリー「NOW IDeA」の運営のほか、本を通じて様々な活動を行っている。日本初の大規模なアートブックフェア『THE TOKYO ART BOOK FAIR』共同ディレクターも務めている。9月25日に、新刊『ない世界』(木楽舎)が発売される。www.utrecht.jp