工藤キキの貧乏サヴァラン

vol.10キキはじめてのバック・トゥ ベーシック 

文:工藤キキ
ロゴ:石黒景太

「...生きている歓びや空気の香い、歓びの味、それがわからなくてなんの享楽だ。なにが生きていることだ。人生は人に感心されることをやって道徳づらをして(本ものならいいが偽の仮面)それで生きているのだろうか?即席ラーメンやどこの店も同じなハンバアグをくい、つまらないあくびの出る女と歩いているのは楽しさではない。いい舌を持って自分で造らえればいいのだ。では枚数がもう一行で尽きるからこれでさよならしよう。生を、空気を楽しむことである」
││森茉莉『貧乏サヴァラン』より

ここで告白する......キキは“私も貧乏サヴァラン”との表題を掲げていながらも、つい先日まで世田谷の邪宗門に行ったことがなかったのだった。森茉莉ファンにはお馴染みの、マリアの応接間であり書斎であり、ボトル・キープならぬ、店の冷蔵庫にお気に入りの(小岩井)バターをキープし、さらには弁当を持参して開店から閉店まで、今風で言うなら「OCCUPY!」していたリバティ・プラザならぬ喫茶店“邪宗門”。......大変失礼致しました。

そんなわけで、後ろめたい気持ちを抱えながらドアをあけると、そこは古いカメラや骨董などがひしめき合う懐かしい飴色の世界。店主の「こちらね、森茉莉さんがよく頼まれてた......」とのメニューの説明に反応するキキに「あら、ファンの方ならこちらに」と、あれよあれよという間に、愛用していた出入り口に近いテーブルへと案内され、店主・作道明氏による、思い出話がポンポンと弾けだすのだ。しかも、キキがこの日数人目の「森茉莉ファン」だそうで、遠くは中国から、みんな代わる代わる、マリアご指定だった席に通されるのであった。

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まずキキがオーダーしたのは“モリマリティ”と呼ばれる、マリアが考案したロイヤル・ミルクティである。当時、スプーン2杯程度の日東紅茶で3杯の紅茶をいれていた店主に、“紅茶はトワイニングの黒缶(プリンス オブ ウェールズ)を3分蒸していれる”“添えるミルクは、生クリームにエバミルクと砂糖を足したもの”と細かく指導、しながら紅茶1杯で閉店までいたマリア。

店主・作道氏は次々に、より抜きの雑誌の記事や、文章の一節をひろげてくれ、「これがね、『恋人たちの森』に登場したあの香水!」と“4711番のロオ・ド・コロオニュ”を差し出す。そして後から続々来店するお客さんにも、分け隔てなく声をかけ、マリアが東条英機と西城秀樹を間違えた話などで、店内のムードを盛り上げる。見かけは古い世田谷の喫茶店ではあるが、まさに、森茉莉ランド!のごとく空気はマリアで満ちていた。

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濃厚でおいしいモリマリティ。そして原稿も用意され気分は牟礼マリア。
邪宗門 世田谷店(東京都世田谷区代田1-31-1 TEL:03-3410-7858)定休日:木曜

極めつきは、森茉莉が店主・作道氏に送った秘蔵の手紙。プライベートなものなので内容を読むのを憚ったが、歩いて5分圏内のアパルトマンに住んでいたマリアから速達で、ほぼ毎日手紙が届いていた。しかも中には、宛名の方だけ別の紙を貼り封筒のリサイクルをしているものや、速達で手紙がくる割には内容は作道氏へのものではなく当時マリアが意識していた邪宗門の常連男性への思いが綴られているなど、しかも既婚者の作道氏に気を使ってか、宛名は「森田」......!タモリ? 

そしてマリアは朝になるとお弁当持参で邪宗門に現れ、原稿を書き、打ち合せをし、弁当を食べ、荷物を置いて買い物にでかけ、また戻り閉店まであの席に座っていたのだ。もちろん紅茶1杯で......。そしてマリアがいない世界でも、邪宗門はキキのような物書きの端くれにさえ、愉快な話がついた600円の“モリマリティ”1杯で、長々と占拠させてくれたのであった。OCCUPY!

PROFILE

くどう・きき/アートライター。主にアートを媒介としたカルチャーコラムの執筆や展覧会のキュレーションなどを手がける。著書に美術批評集『post no future --未分化のアートピア』(河出書房新社)など。隔月でART ZINE『LET DOWN』もリリースしている。www.letdownmag.blogspot.com そんなわけで、これからも貧乏だけど志だけは少し高い生活臭を紹介していきたいと思います。よろしくお願いします。

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